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Grave digging is over
Only 18 years left
Do not disturb me any more
Leave me alone

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(一)菩提心を起すべき事

右について。菩提心は、名は多くありますが、ただ一つの心です。

竜樹祖師は、「ただ世間のものごとが生滅してとどまることのない無常ということを観察する心もまた菩提心と名づける」と言っておられます。ということであってみると、さしあたり、この世間の無常を観察する心が、菩提心ということになりましょうか。

まことに、世間の無常(特に死)を観察する時は、吾我というものに執着する心は起りません。名誉、利益を追い求める気持ちも起りません。ただ、時日がたいへん速やかに過ぎ去るのを恐怖るばかりです。

ですから、道を修行するには、頭髪に火がついたのを救いのけるように、一刻の猶予もありません。また、身も命も実にもろくはかないことを見、反省します。

ですから、ひとすじに道に向って修行するには、釈迦牟尼仏が前生に菩薩であられた時、弗沙仏に会いたてまつったよろこびに、片足を爪立て、まばたきもせず、七日七夜の間、一偈をもって仏を讃嘆えた心意気にもならうのです。

たとい天の楽神緊那羅の声や、この世で最も声の美しい鳥といわれる迦陵頻伽が讃嘆えて鳴く声を聞いても、夕べの風がそよと耳もとをかすめたと同じです。たとい古代中国きっての美女といわれる毛嬙・西施ほどの美しく妙なる顔ばせを見ても、風をまつ間の朝露の、ちらりと眼に入ったとおなじです。

目や、耳などの感覚の対象にひき回されて自由を失うことがなくなれば、自然に菩提心の理致にかなうものでしょう。 往古から今に至るまで、真実の教えを聞くことの少ない人や、真実の人を見ることの少ない人の上を見聞すると、多くは名誉、利益を追う心の坑に落ちこんで、永遠に仏道の生命を失っています。

哀れむべく、惜しむべきことです。心得ておかねばならぬことです。 たとい複数(仮の教え)・実数(真実の教え)と分類される多数の大乗教典を読んだとしても、またたとい顕教・密教と分類されるその道の書物の伝承を受けたとしても、名誉、利益を追い求める心をなげすてないうちは、発心と云うことはできないのです。



中略


古から、道を得、法を得た聖人が、一般の人を救う手だてとして、世間の人と同じ生き方をされたことはありますが、名誉・利益を追い求める邪念はなかったのです。

たださしあたって、吾我というものを全くなくして、人に知られることなく、ひそかに修行をする、これがすなわち菩提心の親しいあり方です。

ですから、外道には六十二の間違った考えがあるとされますが、その根本はただ一つ、「我」という実体を認めるところにあります。

もし我見―自分という実体があるという考え―が起る時には、静かに坐を組んで、観察しなさい。今、自分の身体、それに伴って内外に有るところのもの、何れを根本としましょう。

身体髪膚といった肉体は父母からもらったものです。赤い血と白いリンパ液は身体中を循環していますが結局は実体のあるものではありません。ですからこれは我―わたしというもの―ではありません。心と意識によって知ることが寿命をつなぎ、出る息、入る息がわたしをささえているわけですが、それらは結局のところどうなのです。

こういうわけですからこれらは我―わたしというもの―ではありません。肉体も精神も呼吸作用も、どれといって、これがわたしだ、といって執りつくべきものは無いではありませんか。迷う者はこの我にとりついて迷い、悟る者はこの我とすっかり手を切ります。であるのに、人は本来無我である我をかぞえ立て、本来不生である生に執着します。

道は行じなければならないのに行ぜず、世間的な分別判断は断ち切らなければならないのに断ち切らず、真実の法をきらい、真実でない法を求めます。これでは、どうして間違わずにいられましょう。






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by mongotardio | 2014-05-08 21:54